学園棋神伝マインドル 皆月先輩編クリア後記


はい。
前々から細々とプレイしておりました
超大作フリーノベルゲーム『学園棋神伝マインドル』。
最後に残っていた皆月先輩ルートをクリアして、CGの収集も完了しました。
CGモードの枠が全部埋まった達成感。


そしてここまでやったからには、
俺はこのゲームの感想を書くことを宿命づけられているのだ……。

一応最初に、基本的なことをキリエ編の記事からコピペしておきます↓

『学園棋神伝マインドル』公式サイト
http://site-a.info/game/mindll/

『学園棋神伝マインドル』は、上記のサイトで公開されている、
「プレイ時間約60時間(全ルート合計)」
「ファイルサイズ約2.1G」「全年齢対象フリーウェア」の
ボードゲームをしながら学園生活を満喫したりしなかったりする大長編ノベルゲーム」
です。


プレイ時間60時間と書いてありますが、ちゃんと内容を理解しようと思ったら
(自分の頭では)60時間では足りず、相応の読解力と思考力が求められる印象でした。

↓他詳しいことはキリエ編の記事を参照されたし。


学園棋神伝マインドル キリエ編クリア後記
https://bunaguchi.hatenablog.com/entry/2020/08/22/191640


というか、自分でもキリエ編の記事を久々に読み返して
プレイに至った細かい経緯とかを思い出した次第。
最初にDLしたのが2019年ってもう3年以上前なんだな!


ストーリー


軽くお話の内容を紹介しておきますと、
皆月先輩編のストーリーは大きく前後編に分かれていまして、
1~7話が前編、8~14話が後編となっています。


一度は甲子園まで行きながら、肩を壊して野球の夢を断たれた主人公「折原亮介」が、
幼馴染のキリエに半ば強制的に入部させられたボードゲーム研究会で
生徒会長の「皆月多恵子」先輩と出会い、
さらにその先輩を慕う「後藤亜希」とも関わりを持つことになる。

皆月先輩は生徒会長でありながら、コンビニでパンやスナック菓子を買うのにすら
迷いに迷ってなかなか決められない優柔不断な性格だった……
という導入。


どうやら皆月先輩編はゲーム全体で最後にプレイするルートという想定らしく、
何かを選択する、決断するということの意味を誰よりも重く受け止める皆月先輩に加え、
後藤と、本ルートでも結構話に関わってくるキリエと知子により、
他のルートのおさらい(+さらなる掘り下げ?)まで含んだ多彩な内容になっています。

7話で一応の区切りとなり、条件を満たすと進める8話以降の後編は……
何を書いてもネタバレになりそうですので、気になる人は実際にプレイして確かめよう!
とでも書いておきます。


感想・考察など(以降ネタバレあり)


基本的には楽しくプレイさせていただきました。
試合の回数は多いですが、難易度はそこまでではなかったかな?
ただ一部の、変則ルールによるバトルだけかなり手こずりましたね。


ゲームとしてはやはりノベル部分がメイン。
一貫して「自殺」をテーマにしていたキリエ編と違って
皆月先輩編は話の内容が多岐に渡り、理解が難しいところも多かった印象です。


いろいろ考えたのですが、お話の内容に思想の色が強く、
あんまり特定の思想と言えるような強い考えを持っていない私としては、
部分的な是非はあれど、全体的には肯定も否定もしかねるし、
感想を言いづらいというのが正直なところ。


なので以降はその「いろいろ考えた」内容をつらつらと書いていきます。
感想よりは考察寄りの内容で、遠慮なくネタバレしています。
未プレイ者置いてきぼりの内容になりますので、
気になる人は実際にプレイして確かめよう!(2回目)


皆月先輩のバタフライ効果責任論、その背後にある世界観


コンビニでスナック菓子を選んだり、呼吸をしたりすることによる些細な影響が
バタフライ効果のように広がって世界を滅ぼすかもしれず、
もしそうなったら責任を感じる(自分が責任を負う)という皆月先輩の
バタフライ効果責任論」(と勝手に呼称)。

これは1話から何度も言及され、ストーリーの根幹に関わっているのですが、
自分の感覚では納得度が低く、ゆえにそこから展開される話に
乗り切れなかったというのが正直なところではあります。



コンビニで菓子パンを買ったくらいのことが
バタフライ効果で核戦争に繋がる可能性はゼロではないというのは分かりますが、
それは結果に影響を与えた無数の事象の中の一つにすぎず、
決して菓子パンを買った「だけ」で核戦争になるわけではないし、
予測不可能な上に再現性もないし、
「原因の一つ(ただし間接的かつ関与の度合いは非常に小さい)」
とは言えたとしても、そこに関する責任を負う道理は無いのでは、と思いました。



知らなかったのだから仕方がない、それ以降は気持ちの話、
と作中で言われている場面もあり、
つまりこれは理屈としての「理解」よりも、
感覚としての「共感」が必要な話なのかなとひとまずは解釈しました。


で、ここから先がむしろ考察としては本旨なのですが……
なぜそういう話になっているのか?



結論を先に書くと、キリエルートにおいてメインで扱われる、
「この世は全て間違いであり、何をやってもこの世の『良さ』はゼロ以上にはならない」
という思想がこの皆月先輩ルートでも健在であり、
それを前提としているゆえのバタフライ効果責任論なのだと私は理解しました。


上の画像の場面なんかも、
[生きること=選択すること=悪いことが起こる可能性の引き金を引くこと]
と繋げると分かりやすい。
「単純な確率で言えば五分五分なのかもしれない。
だがそんなものは埋め合わせにすぎない」
という文が、「良いこと=埋め合わせ」自体の価値を認めていないと読めます。


良いことがどんなに起ころうと、何なら五分五分ではなく
99%の確率で良い結果になるような選択でも、
良いことの価値が0であり、悪いこと(=「間違い」)だけが
負の価値を持つ世界観だと、どんな選択であれ期待値はマイナスになる。

つまり、自分を含む一般的な考え方では、
バタフライ効果程度の影響ではそこから因果を辿った先にある結果が
良し悪しも含めて予測不能だから「責任」なんて発生しないだろうと言えますが、
この世の「良さ」を認めていない世界観では何をやっても結果は「間違い」なので、
どんな結果になろうと「間違いが起こる」こと自体は予測可能の範疇に入ってしまう。


そういう選択に責任が発生するかどうかは厳密には別問題な気もしますが、
「全てが間違い」である以上は「選択=間違いへの加担」であることは揺るがないので、
そう考えると心理的に「恐ろしい」「責任を感じる」となるのはまあ、
共感はできなくても一定の理解はできる、かな、と。

つまり、バタフライ効果責任論に共感できるかどうかは、
「この世は全てが間違いであり、この世界の『良さ』を認めない」
という前提を受け入れているかどうか、なのではないかと思いました。


「この世は全て間違い」はキリエ(とそれに感化された主人公)の主張であり、
皆月先輩はそこまで言ってないのではという引っ掛かりもなくはないのですが、
しかし全体の流れを見ると、これは主人公側のメインキャラ全体で
暗黙のうちに共有されている考えと捉えて良さそうに思えます。


「意志を放棄したゾンビ」と「他人を操ることはできない」


スマーティングシステム。
12話で登場するこの技術は、高精度の未来予測により
目の前の相手のじゃんけんの手まで当てるという、
現実的な視点からするとだいぶオーバーテクノロジーな代物。

このシステムに個人の携帯や
ゴーグル型のウェアラブル端末からアクセスできるようになり、
「サジェスト」という形で意思決定を代行してくれるようになった作中において、
システムの指示のままに行動し自分で考えなくなった人々を主人公は
「意志を放棄したゾンビ」と呼び嫌悪します。
そこまでは分かりやすいのですが。


この「意志を放棄した」とされる人々は、
「超高精度な未来予測システムの指示に従っている」だけのはずなのですが、
なぜか知能や感情まで失っているような描写をされており、そこが気になりました。


やるべきことを全部教えてくれる便利なゴーグルをつけていても、
階段から突き落とされたり爆弾が降ってきたりしたら
「えっ何!?」という驚きや困惑、不安の反応を見せるのが普通で、
それは「主体的に行動する意志」とは別のところにある自然な反応だと
私は思うのですが、この物語ではそれはほとんど無視されていて、
システムのユーザーはあり得ない指示にも黙々と従い、
爆弾が落ちても驚きすらしないなど、
[主体的な意志のない人間=ゾンビ]という図式が一貫しているように読めます。


で、これに関しても、「なぜそういう描写になっているのか?」
というのが結構考えたところでした。
なぜそういう描写になっているのか? 以下に私の解釈を書きます。



そもそも「意志」とは何か?

五感を通していろいろなことを感じる「感覚」が最初にあり、
それに対する反応として感情や思考が生じ、
主体的な行動に繋がる「意志」もその結果として生じてくる、
というのが私の大雑把な理解です。
脳科学とかの専門的な話は分かりませんが、一般的な理解とそうズレてはいないはず。


しかし、この学園棋神伝マインドル世界においては、
どうもそのあたりから事情が違っているのではないかと。
むしろ「意志」が先にあり、その意志から感覚や感情、知性や思考が生じているのでは?
そう考えると、いろいろな部分が腑に落ちます。


感情や思考を生成するためには「意志」が必要なので、
意志を失った人間は、感情や知性すら失われてゾンビのような状態になる。
そういう世界観。

脳を含む肉体由来の感覚よりも以前に心が存在する、という点で、
マインドル世界における「意志」は、一般的な言葉では意志というよりも
「魂」と呼ばれるようなものと解釈した方が理解しやすいのかなと思いました。



13話において、システムのユーザーとなった純ヶ崎を説得する場面。

「ゴーグルを外している今の純ヶ崎とさえ話ができないなら、
もうこの世に"純ヶ崎"という人間は存在しないということだ。」

意志を失った人間は「もうこの世に存在しない」という表現。
意志を持つことは、人間が人間として存在するための最低要件だと分かるこの表現は、
[意志=魂=「人間」そのもの] という解釈を補強します。


ところで、「他人を操ることはできない」というフレーズは、
この皆月先輩ルートでも要所要所で言及されます。


たぶん二葉知子編で大きく扱われたテーマだったと思うのですが、
知子編プレイ時はこのマインドルという作品に
まだ頭が馴染んでなかった(そこまで深く読んでなかった)のでちょっと自信がない。


ともかく、この「他人を操ることはできない」は、
作中では基本原理のように扱われているのですが、
最終話において、スマーティングシステムを乗っ取った有馬は、
システムを通して「意志を放棄した」人々に指示を出し、
意のままに「操って」主人公たちを攻撃します。


これは一見「他人を操ることはできない」と矛盾しているように見えますが、
これも[意志=魂=「人間」そのもの] と解釈することで納得できます。

つまり、操られている人々は人間が人間として存在するための最低要件である
「意志」を失っているので、既に人間ではなく、よって「他人」とも言えない。
「他人」ではないのだから、操っても「他人を操ることはできない」と矛盾しない。


意志を失った人間は人間でなくなる。
「ゾンビ」という表現は単なる揶揄ではなく、
生きながら意志(=魂)を失った状態をストレートに言い表した表現、と解釈しました。


人の意志を否定する、敵の背後にあるもの


マインドル世界では感覚も意志から発生すると書きましたが、
普通に考えてそれは結構おかしいとも思うのですよね。
実際、例えば「苦しみ」とか「痛み」みたいなネガティブな感覚を、
自分の意志で発生させていると捉えるのは無理がある。

にもかかわらず、この世界に「苦しみ」があるのは何故なのか……と思考は進みます。


この矛盾を解消するには、苦しみは自分の心(意志)とは別のところ(肉体?)
から発生していると考えて、自分とは別の「何か」の意志がそこにあるという
心身二元論的な?)考え方をすると辻褄が合うのかな……と思いました。



「自分の肉体さえもなくなる。すなわち肉体的な欲求を
行動の指針とすることもできない。ただ純粋に自分自身があるのみだ。」

肉体的な欲求は「純粋な自分自身」には含まれないという表現は作中にあり、
やはり純粋な自分自身ではない「肉体」由来の感覚は、
自分の意志ではない、自己の外側から与えられたもの、と解釈できます。


この世界観だと、他人を操ることはできないというのは、
他人の意志を支配することはできないという意味なので、
意志ではない感覚や感情的な部分は操れる可能性がある。
もちろん人間には(直接は)不可能ですが、
肉体的な感覚を存在させている「何か」はその限りではなく、
つまりその「何か」がこの世に肉体を存在させて、
人々の意思(魂)に肉体という形で「苦しみ」を押し付けていると。


また、「意志」が肉体とは独立に存在するということは、
肉体が滅んでも「意志」は何らかの形で残る可能性があるということで、
ゆえに意志を失うことは死ぬよりも恐ろしい……と、これも作中の表現と合致します。


作中において、陰之内ら敵勢力を駆り立てている
大きな意志を持った「何か」の存在が背後にあることが
たびたび仄めかされますが、それが上記の、
人間に苦しみを与えている「何か」であると考えるといいのかなと思いました。


ここまで来ると、ちょっと仮定を重ねすぎていて
実際の作者様の意図とは離れているかもしれないとは思うのですが、
物語の可能な解釈のひとつとしては、そう外してもいないのではないかな。たぶん。


分からなかったこと:キリエにとって二葉知子とは何なのか?


後半のキリエの言動、行動原理のようなものが、最後まで分からなかったところです。

この皆月先輩ルート後半のお話にはそこまで深くは関わっているわけではないので、
物語の理解に大きな支障はなかったと感じていますが、
キリエルートの「あの」エンディングを見た者としては、気にしないわけにはいかず。


後半のキリエと知子の関係性は、キリエルートのあのエンディングの
続きという意図かと最初は思っていたのですが、改めて読み比べると、
2人ともキリエルートのときとは少々互いの認識が異なるように思えるので、
あくまで別次元というか、多少異なる経緯でこうなったと理解した方がよさそうかな。


11話で再登場するキリエは、
常人には不可能な「自らの意志で自殺を選択・実行」できるマインドを
すでに獲得していながら、キリエのいない世界を拒絶した知子の願いにより、
知子と同棲して養われる形で、未だこの世に留まっています。

「生きることが間違い」という考えを改めたわけではなく、
自殺についてもまだ「予定に入っている」と言いますが、
「知子より先には死なない」ことを知子と約束していて、
その約束を最優先に行動している……と読めました。

約束を果たせなくなるような事態、例えば命の危機が迫った場合には、
その危機を排除するための殺人も厭わない姿勢で、実際に作中では、
紆余曲折の末にテロリストと化して襲ってきた元講師の藤村を、
携行していた包丁で殺害します。

一応客観的に正当防衛とも取れるような形にはなっているものの、
キリエは「死ぬのをやめたということは、代わりに人を殺すということ」
と自分の殺人を肯定する発言をし、知子もそれに同調。



知子にとってキリエは必要な存在であり、ゆえに知子はキリエの自殺を引き止めている。
では、キリエにとっての知子は何なのか? キリエが知子と「約束」をした真意は?
というのが、よく分からなかった部分です。


キリエと知子が相思相愛であればまあ分かるのですが、
実際のキリエの台詞では、知子に対して
「知子ちゃんを心配する筋合いはどこにもない」という扱い。
そうすると、


1. キリエは人を殺せる
2. キリエは自殺したいが知子によって止められている(ので知子より先には死ねない)
3. キリエにとって知子は「心配する筋合いはどこにもない」存在


ということなわけで、これだとキリエにとっては
「知子を殺して自分も死ぬ」が最適解になるのでは?
と、思えてしまう。


前々から語られている、


4. キリエはなるべく他者と関わりたくない(=生死にも干渉しない)


というキリエの行動指針により知子を殺さないのだと考えることもできますが、
そうすると、11話終盤で皆月先輩に対して放った
「死ねばいいんだ」という言葉が気になります。
これにより先輩は(精神的に)「トドメを刺された」と作中でも言われており、
「約束」の遂行の障害になっているわけでもない皆月先輩の生死に
思いっきり干渉しているように見えますが……。


作中でも主人公が直接「お前の目的は何だ?」とキリエに問いかけますが、
明確な答えは得られません。


「誰かに嫌な思いをさせたんじゃ本末転倒だからね」


↑「誰かに嫌な思いをさせたんじゃ本末転倒だからね」
の「誰か」に該当するのが知子だけなら分かりますが、そんなわけはなく、
自分が生存してることにより結局「不幸ゲーム」の波紋を広げてしまっている
(=誰かに嫌な思いをさせている)ことはキリエも自覚している。


キリエが死ぬことにより知子が「嫌な思いをする」のを回避するために
「約束を守る」ことが必要。
しかし一方で、約束を守ってキリエが生存していることにより、
「誰か」が嫌な思いをして結局「本末転倒」な状態になっている。

生きている限り間違いは続くのだから、
知子と2人で心中すれば「本末転倒」は解消され、これ以上不幸の波紋を広げずに済む。
その場合、知子が「嫌な思いをする」のは避けられないが、
それは止むを得ない犠牲のはず。

キリエにとっての知子が「誰か」のうちに含まれる一人にすぎず、
「心配する筋合いはどこにもない」存在なら、
知子以外の全ての「誰か」を犠牲にして知子を生かす理由がない。

しかし実際には、キリエはそういう選択をしていないわけで、
では知子はキリエにとっての何なのか?
このキリエは人の「幸せ」を「願って」いるのか?



「キリエの行動の理由はどこまでもキリエのものだ」あたりを踏まえると、
この「解らなさ」も織り込み済みなのかなという予感もあったりはしますが、
単純に自分が読解できてないという可能性も大いにあり、解釈が難しいところです。


終盤における赤坂さんの扱いとエピローグの内容


これはここまで書いた考察とかとは違って
最終話のストーリー展開に対するストレートな不満になってしまうのですが、


エピローグに!
赤坂さんの姿が!
影も形もない!!!


のはどういうことなのか?

(ここでいうエピローグとは、最終話で世界を命運をかけた選択をして、
音楽と画像が流れるデモを挟んだ以降の場面のことです)

戦士は常に戦いへの備えを欠かさない。 よって赤坂さんの私服はジャージである。


赤坂麗子。またの名をヴォイド赤坂。
別の世界線では「掴み得ぬ空虚のヴォイド」という素敵な名前も持っておられましたね。
基本的に敵勢力の一員として話に関わってきますが、
終盤ではスマーティングシステムによる支配に異を唱え、主人公に協力します。



もともと異常なフィジカル描写が目立つキャラではあったのですが、
先輩ルート終盤の赤坂さんのそれは完全に人間を超越した域に達していて、
システムに操られて銃撃してくる軍用ドローンとの戦いを一手に引き受けます。素手で。


最後の最後、皆月先輩は、
世界を滅ぼすかもしれないのにどちらが正解か分からないという
究極の2択を迫られ、赤坂さんを含むその場にいた全員が
先輩の意志に選択を託します……が、ここで赤坂さんの出番は終わり。
続くエピローグには、赤坂さんは影も形も出てきません。


もともとメインキャラ(ヒロイン)というわけではないのですが、
さすがにこの流れでそれっきりというのは、ちょっとどうなのかなと。

といっても、「その後が知りたかった」とかそういう話ではなくて……



エピローグのメイン話題が、「戦う必要なんてない」なのですよね。


最後の究極の2択、50%の確率で世界を救ったのは皆月先輩ですが、
しかしそれ以前に、比喩ではないまさに直接的物理的暴力的な
「戦い」のほとんどを引き受けてくれた赤坂さんがいなければ、
一行はシステムのサーバールームに入ることすらできずに
ドローンに撃たれて全員死んでいたはず。

「戦う」ことにより0だった希望を最後の2択の50%にまで引き上げた
立役者である赤坂さんを抜きにして「戦う必要なんてない」を語るエピローグに、
どうしても違和感を覚えたというのが正直なところです。


一方、エピローグで展開されるお話自体は、分からなくもなく。

誰かと自分を比べ、人の上に立つこと、他者を見下すことでしか
生きている意味を感じられない、そういう人間の暗部を指摘し、
その「比べる」ためのメイン手段である
(広義の)「戦い」を問題にしている、と読めました。

なので、大切なものを守り、自分の意志を貫いた主人公たちの「戦い」とは
異なる性質のものと理解すべきであり、上に書いたような私の不満は、
そういう意味では的外れな感想なのかもしれません。


しかし、そうであるならなおさら、
それを「戦い」という言葉で表現する必要はあったのか?
は疑問の残るところではありますし、
そこに関して、紛れもなく己の意志で「戦い」、
最後の選択を皆月先輩に託した一人である赤坂さんも交えて、
エピローグの話を進めてほしかったな、と思いました。


局所的な感想


ここまで真面目な考察などを書いてきましたが、
以下ではちょっと思想的な側面からは離れた、単純に物語として面白かった部分や
局所的な感想などをいくつかまとめて書き残しておきます。

副会長


前編に登場し、女子野球部の正式な「部」昇格を巡って
主人公や皆月先輩と対立する生徒会副会長。魅力的なキャラクターだと思います。


女子野球部の部長で男勝りだが、知的で非常に頭が切れるというギャップ。
根底ではしっかりした倫理観を持っていながら、
己の野望と信念のためには卑劣な手段も辞さない冷徹な強さ。
しかしその強さは実は心に抱えた弱さやトラウマの裏返しであり、
他者を蹴落としてでも己の価値を証明しなければならないという
ある種の「呪い」に囚われ、追い詰められている悲壮感が印象に残ります。


根本の部分では分別があるので、
感情ではなくあくまで立場で敵味方を区別しており、
立場が変わればかつて敵対していた相手に頭を下げて
協力を求めたりということができるのもまた好感度が高い。


特に報われることもなく7話で退場……と思いきや、
条件や選択肢によっては7話でエンディングが流れて終了し、
そちらの方の結末では少しその後も語られます。
そちらでも別に報われたというわけではないですが、
全てを失ったゆえに「呪い」からも解放されたとも取れる話になっており、
これからは前向きに生きてほしいな……と思わせられるほど、
感情移入度が高い、印象深いキャラでした。

第7話終盤

前半の最後となる、7話の終盤がすごかった。


もうこの世界にいられない。そう言い残して消息を絶った皆月先輩。
先輩はどこにいるのか? ある予感を抱いて深夜の学校に来た主人公と後藤。


この後があまりにもアクロバティックな急展開。

7話はかなり長い話ではあるのですが、
それでもこれだけで1話使ってもいいような展開を
終盤に畳みかけられ、その勢いに圧倒されました。



望遠鏡で先輩が一人宇宙に浮かんでいることを確認し、
宇宙船の貨物室に密航して宇宙服を一人で装着して宇宙空間で船外に出て、
先輩を救出し宇宙船に戻って無事に地球に帰ってきてその足で学校に登校。


学校の備品の望遠鏡で宇宙空間に浮かんでる人が見える?見つけられる?
先輩は船外活動服でどれくらいの時間宇宙空間にいたんです?
宇宙船がステーションにドッキングしてから帰るまで、
クルーの誰一人貨物室の中を見もしなかった?
帰りの数日間、トイレはどうしたの?


一応、作中の宇宙開発事情が現実のそれとは
だいぶ異なっている(技術も進んでいる?)ことの
遠回しな説明のような場面はありましたが、それにしてもあまりに力技。


いや本当に、現実的でも科学的でも論理的でもないので、
ともすればご都合主義と言われるところなのかもしれませんが、
なんかもうそういうのはいいだろ、大事なのはそこじゃないんだよ!!!
と言われているような「圧」をビンビン感じましたし、
それが、どんな困難を乗り越えてでも主人公は己の意志で
先輩を宇宙から連れ戻すのだという話の流れにも逆に説得力を与えていて、
画面の向こう側からプレイヤーに「意志」をぶつけてきているような
エネルギーに溢れており、理屈じゃない納得感がありました。
なので私はこの話を肯定したい。面白かったです!

仮面マインドラーの正体

12話で明かされる、仮面マインドラーの「正体」。
あの仮面は誰が被っているのかバレバレで
一種のギャグみたいなものだと思っていたので、かなり意表を突かれました。


仮面マインドラーは、「仮面の下の正体が誰なのかは問題じゃない」
みたいなことを自分で言うし、それは「答え」への
かなり大きなヒントになっていて、何ならその答え自体も
「フィクションに登場する仮面キャラの正体」としては先例のあるものだと思いますが、
普通そういう「本人の実力じゃなく誰でも最強になれるイカサマ道具で無双してた」
みたいな扱いになる役割は、物語上でも重要性の低いキャラに
割り当てられるようなイメージがあったので全然思い至らなかったですね。


これが例えばホビーバトル系(?)の漫画やアニメなら、
最強の敵がそれでは盛り上がらないのであまりいい展開ではないのかもしれませんが、
本作はそういうホビー系とは一線を画した視点から作られている話なので成立するし、
人の意志を否定し「正しさ」だけを求める敵の望んでいる世界の縮図にもなっているので
むしろ盛り上がるのが目から鱗


主人公と敵組織(陰之内・二葉教授)では、
マインドル自体の価値を認めておらず勝敗をどうでもいいと思ってる点では同じですが、
「マインドルはただのゲームであり、勝ち負けに意味などない」
と思っている主人公に対して、
敵組織の考えは「勝敗を決しようとする人間の意志などどうでもいい」
(のでイカサマで勝敗を操作して「正しい」結果に誘導する)
ということであり、それが浮き彫りになるあの展開は非常に面白かったです。


終わりに


今思えば、私が到達したキリエ編の「あの」エンディングは、
残った問題はあれどお話としてはかなり綺麗にまとまっていたなと思います。


皆月先輩編(の後半)は、上の方にも書いた通り
キリエ編から直接続いているわけではないのですが、
それでもあのエンディングの「その後」を思わせる内容ではあり……。


綺麗にまとまって終わった、その先。
だいぶ予想外だったというか、そうなるの!?という驚きがありました。
あのまま綺麗に終わらせてはくれなかった。


皆月先輩編のエピローグおよび作品自体の持つメッセージとしては、
「戦う必要なんてない」に加えて、「自分の意志を持て、主体的に行動しろ」
「世界を変えていくには一人一人の心掛けが大事、できることはある」
……あたりになるのでしょうか。


しかしながら、これもまさに作中で言われているように、
それだけだと単なる「お説教(強者の言葉)」で終わってしまうわけです。

だから、綺麗にはまとめられない。気持ち良くは終われない。
むしろエピローグのメッセージとしては、
「何も終わってなんかいない」の方が大事なのかなと感じました。



この記事も適当に「この作品に出会えて良かった!」みたいな
綺麗な言葉で締めようかと最初は思っていましたが、
上記のようなことを考えると、「綺麗に終わらせる」のは違うなと。


私はこの作品を、作者さんの現実世界に対する思想が
多分に反映された作品であると受け取りましたが、
しかしその「現実世界」は、私の見ている現実とは違うなとも感じています。


それゆえか、作中の主張や展開に同意できない部分も大量にあり、
そこをごまかして「綺麗に終わらせ」てしまうことはできず。
分からなかったことや否定的なことまで書いたのはそういう理由もあります。

キリエが死ぬのを延期したように、私も
「これは俺が触れるべきゲームではなかったのでは?」
という問いに対して答えを出すのを延期しようと思います。
残る一つのルートをクリアするまで……。


↑と、以前私がキリエ編について書いた記事の最後も、
ちょっとカッコつけて綺麗にまとめようとしていたのが、今見るとちょっと恥ずかしい。


カッコつけた「答え」を出して綺麗にまとめて終わりにするのではなく、
自己や世の中に関するいろいろなことに対して、
答えを出せないからこそ存在しているのが『学園棋神伝マインドル』なのかなと、
そういうふうに思いました。


だからといって、「カッコつけるな」「綺麗にまとめようとするな」のようなことを
言ってしまったらそれ自体もまた「カッコつけ」の一部になってしまう気がしますが、
そういうジレンマもまた、多少表現は異なるものの作中の議論に含まれており、
考え抜かれて作られた作品なのだなと感服するところです。


ということで、綺麗には終わらせられませんが、
それでもこの記事はそろそろ終わりにしたいと思います。
色々な意味で「重い」ゲームでした。

まとまった結論は何もありません。
ここまでお読みいただきありがとうございました。